ぱっとやごうのジャズ千夜一夜物語
第6夜 おさまるべき場所 その3
息を切らせて現金を右手に握りしめ、レジまで走っていって下品に札束をひらひらさせて言った。
「895,000円!!はちじゅうきゅうまんごせんいぇん!全部くれ!」
そう言って見渡したが先程の僕の、いや、かつて僕のものだった衣服たちを詰め込んだカートが見当たらない。 いよいよ麻酔を打ったように痺れた頭の中から僕は言葉を捜し、ふりしぼってそれを声に出してみる。
「カートは? ‥ 2台と半分のカートは? ‥ 僕がさっき ‥」
「売れました。全部売れました」
レジの女の子は今度はほんの少しだけ同情したような声で、しかし事務的にそう言った。 痺れた頭には彼女の言った言葉が良く飲み込めなかった。
「あっ、そう、売れちゃった ‥ そう ‥ 売れちゃったか ‥ ふーん」
僕は疲れた頭で、それでもまだ何か残っているかもしれないと思い、もう一度放心状態で会場をうろうろしてみる。
10分も歩き廻った頃だろうか、 ─ あった!! ─
そう、確かに有った。
久美とお揃いで買ったトレーナー、そしてそれは『ぼくの』では無くて、
『Peaceful Heart & Gentle Spirit To Hisami Chico Freeman』とサインの入った彼女の方のトレーナーだった。
─ あった! ─ と思いはした僕だが、しばらくそのトレーナーを手にとって眺めた後、 それはそのままそこに残してもう帰ろうと思った。
─ これを買ったところで取り戻せないし、取り戻すべきじゃない事なんだ ‥ かつて僕たちはとても素敵だった、それだけが肝心な事だ ─
ふと足元を見ると先程のネクタイが一本、床に捨てられたように落ちている。
『 ふ ‥』 と鼻で笑った僕はこのネクタイをレジのところまで持ってゆく。
「これ、下さいな」
「はい。¥1,500−です」
僕が財布から千円札を抜き取る間に彼女はちょっと声のトーンを変えて言った。
「みんな、落ち着くところに落ち着くんですよ」
「え? ‥ あ、そうか。そうだよね。みんな落ち着くところに落ち着くんだよね。えーと、それ包まなくて結構」
僕はその場で今買い戻したばかりのネクタイを締めてみる。
「どう?」
彼女は微笑みながら繰り返した。
「素敵ですよ。落ち着くところに落ち着いています」
ネクタイを締めたまま、僕はいつもの『GOOD BAIT』へと見慣れた景色の中を車で飛ばしている。
今日は久しぶりに昼間からハイネケンを飲みながら、Chico Freemanの『SPIRIT SENSITIVE』をリクエストしてみよう。
SPIRIT SENSITIVE / CHICO FREEMAN
1979年 INDIA NAVIGATION