ぱっとやごうのジャズ千夜一夜物語

第8夜 おみおつけ

視覚よりも臭覚や味覚、あるいは聴覚が、遠い記憶をよみがえらせてくれる事がある。

今にも雪が降り出しそうな中を、一人で定食屋の駐車場に車を滑り込ませ、急いでのれんをくぐる。 何の事は無い『竹定食』850円を注文し、運ばれてきた湯気の立つ味噌汁に口をつけた途端だ、その事を思い出したのは ─


大学3年の冬、ちょうど明日から試験週間というその日、僕とLEEの仲はもうどうしょうも無く破局に近づいていた。 その日も僕は図書館の入り口で圧倒的に僕のせいで、彼女を泣かせてしまったのだった。

「俺、帰るわ‥」と言って、学校で別れたのが5:00PMくらいだっただろうか。

山の上にある学校から千里中央行きのバスに乗り込んだものの、どうしても心の中のモヤモヤはいかんともし難く、 僕は彼女の下宿のある<山の口>というバス停で途中下車した。

地面は凍りついており雪もちらついている。 これが大阪か?と思える寒さの中、やがて帰ってくるであろう彼女を待って、取り敢えず今日のことを謝りたかった。

7:00PMになっても8:00PMになっても彼女は戻ってこない。 ─ もしや ─ と思って、バス停から見える彼女の部屋を見上げてみても、明かりはついていない。

冷え切った体と冷え切った心。 僕はがちがち震えながら、それでも何本かのバスを見送った。 大学からのバスなので顔見知りの連中の顔が窓からのぞく。 状況を知らない友人は、『試験前なのにご熱心だね‥』と言った表情で、にやにやしながら去ってゆく。

その間ずっと、僕は買ったばかりのウォークマンで、6人のサックス奏者が入れ替わりで チャーリーパーカーの曲とバラードばかりを演奏した『BIRDS&BALLADS』を聴いていた。 中でもジョンクレマーの『GOD BLESS’ THE CHILD』は、そういった状況の僕にはおしゃれには聴こえずに、 必要以上に神経に絡み付いてきた。

ぶるぶる震えながら自販機で二本目の缶コーヒーを買って、ジャンパーのポケットに突っ込んだ時、最終の一つ前のバスがやってきた。 9:00PMちょっと前だった。 あまりに寒くてボーっとしかけてはいたけど、そのバスから下りてきた恋人の姿を見逃すわけは無かった。

「LEE!!」

何時間ぶりかで発した声はガチガチに震えて、そのままマンガの吹き出しみたいに固まってしまうのではないかと思った程だ。 びっくりした彼女は落としたかばんを拾いあげて僕のところに小走りに近寄ってきた。

「あほやなぁ、悪いのはうちやねん、あほやなぁ‥」

「あの、俺、俺なぁ‥」

ちょっと安っぽい青春ドラマみたいだと思ったがそれどころではない。でも、言葉は出なかった。

と、LEEが「ちょっとここで待っててね、うちの下宿まで来ると大家さんがうるさいから‥」

「え、そやけど‥」

「いい、ちょっと待っててね」

彼女は大急ぎで下宿の方まで走って行き、5〜6分もした頃に戻ってきた。 手には湯気の立ち上る"おみおつけ"を大事そうにしっかり持って。

「‥LEE‥何て言うたらええか‥こんなありがたいもんないわ‥こんなおいしいの‥」

「そやかて明日からテストやから。うちのせいで留年でもされたらかなわんから」

その顔は本当に久しぶりに見る彼女らしい茶目っ気な表情だった。 僕は小脇に抱えていたかばんとお椀を放り出して彼女を抱きしめる。

「ちょっと‥」と、言いながら彼女は体の力を抜いた。

思えばあれが僕と彼女の最後の恋人としての時間だったように思う。 久しぶりに触れた彼女の髪の香りを感じる間も無く、千里中央行きの最終バスはやって来た。 僕はこれが最後になるかも知れないと思いつつ、彼女の頬に素早く接吻した。 もちろん、本当に最後のKISSだった。 バスに乗り込み彼女が見えなくなる迄見届けた後、僕がまだ寒さに震えていると気付いたのは、バスをとっくに乗り換えて地下鉄に乗ってしばらくしてからの事だったと思う。


そんなにたくさんの事を一瞬のうちに思い出した後で、僕は一人ではにかみながらはまちの刺身を口に運ぶ。

BIRDS&BALLADS

1979年 GALAXY RECORDS

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