ぱっとやごうのジャズ千夜一夜物語

第10夜 GOOD BAITの落書き帳 その3 うそつき

あんずとは3年前に半年程つきあっていた。 昨年結婚しておめでたになって昨日で退職した。 30才である。 27才の時に彼女は僕と結婚して欲しいと言った。 結婚がまだ重い僕は、正直に言葉を尽くして丁重にお断りしたまでは良かったが、まさか、と言われるくらいすぐに、別の女の子と付き合い始めた。 それでも会社ではあんずの席はずっと僕と背中がぶつかりそうなうしろだったり斜め前だったりした。 何年間もいっさい口をきかなかった。

コピーマシンの前に僕がいると、彼女はわざわざ遠い方のコピーマシンまで歩いていった。 先週のある朝、給湯室まで胃薬を飲みに行くとお茶当番のあんずが一人で立っていた。 さっさと薬を飲んだ後で半分立ち去りながら、「おめでただって、ね?」と訊いてみた。 彼女は笑ったような、笑わないような顔をした。

昨日、彼女は午後3時を過ぎてからあちこちのデスクにあいさつして廻っていた。 僕の処にもとうとうやって来た。 僕は少しくらいは気の利いたセリフを言おうと硬くなって構えていた。

あんずは、「本当にお世話になりました」と、ぺこりと頭を下げた。

「こちらこそ。色々と‥」と、言いかけると彼女はもうそそくさと次の人の挨拶に急いで行ってしまった。 僕は ─ 当たり前だよな。こんなもんだよな ─ と、ひとりごちた。

会社帰りは正門からでは遠回りになるので裏門から出る事にしている。 昨日もひざの具合が思わしくない僕は、少しビッコを引いて裏門の方に歩いていた。 そこへ黒のシビックが前方から走って来た。 あんずの車だ。 僕はあんずが何か忘れ物をしたのだと思った。 驚いた事にあんずの車は僕の横にすーっと止まった。 パワーウィンドウが開いた。

「裏門閉まってるよ。乗ってく?」

「あ、うん」

車の中には会社で貰ったお別れの花束が一杯。 心が急にこわばらなくなる。 僕が口を開いてみる。

「ごめんね。ろくに口もきけなかった」

「お互い様でしょ。短かかったけど楽しかった」

「そうだね。楽しかった。チャーリーマフィン。モンク」

「そーね。JAZZもまだやってんでしょ?すこしは上手になった?」

「ギターはね。ちょっとは」

「彼女も幸せにしてあげないとね」

「あ、うん」

本当に久しぶりに会話らしい会話を始めたばかりだというのに、車はあっという間に、会社の独身寮である僕のアパートに到着してしまう。

「じゃーね」

「じゃーね」

たったそれだけ。その言葉を頭の中に繰り返す。

─ たったそれだけ ─

でも救われた。

車を降りてしつこいくらいに見送った後に会社の裏門の方に何気なく、眼をやってみる。

そして困ったように微笑む。

何のことは無い、いつものように裏門は開いているのだ。

─ うそつき。あんずのうそつき。完璧だよ。参ったね ─

そんな風につぶやいた僕は部屋に戻りもせず、そのままいすゞPIAZZAに乗り込み、カセットテープをカーステレオに放り込むと いつものGOOD BAITに向かう。

適当に放り込んだにしては出来すぎの、BENNIE WALLACEのTROUBLE AND WOEが流れだす。 BENNIE WALLACEの太いトーンが今日はあまりにも優しい。 目頭を熱くしてとんでもない所へ車を止めた僕に、うしろから激しいクラクションの攻撃が鳴り止まない。

SWEEPING THROUGH THE CITY / BENNIE WALLACE

1984年 ENJA

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