ぱっとやごうのジャズ千夜一夜物語

第18夜 K2

かれこれ17〜18年前になる。

小久保さんは演奏が終わった僕に、

「ねえ、君、ジョンスコ君。とてもおもしろかったよ。SOFTLYを思い出した。 久しぶりにうれしくなるギターを聞いたよ」と言った。

今より100倍くらいヘナチョコだった僕は、 僕たちの前に素晴らしい演奏をしたギタリストが、 そんな風に話し掛けてくれたのでびっくりしてうれしかった。 それが小久保さんとの出会いだった。

小久保さんはクールだった。 ギターももちろんそうだが、プロではないギタリストとしての有り方、 考え方について実際に彼と話した以上のことを、 彼の生き方を見ていて学んだ。 小久保さんは僕のヘナチョコJAZZ BANDのLIVEを欠かさず聞きに来てくれ、 いつも暖かいコメントをくれた。

「バンド演奏うんぬんより君のやろうとしている事を確認するのが楽しいんだよ」

レベルの違う我々ではあったが、企画モノのLIVEや彼のバンドのゲストとして率先して僕と絡んでくれた。 楽しすぎる時間だった。

残念ながらそういう時間は長くは続かない、 僕は小牧に越してきて、 それでも何とか続けていた僕のバンドも僚友のアルト奏者、 ミンガス氏が亡くなった為に解散した。

ミンガス氏の悲報を電話で小久保さんに伝えると、

「君から電話、と聞いた瞬間に何が起きたかわかったよ。 式には出ない、僕はここから冥福を祈る。 君は君で立ち止まらずに進まなくてはいけないよ」

そう言った。

僕はその時彼の白血病の闘病生活が始まっている事をまだ知らなかった。

従ってその時には、 僕は小久保さんの言葉の真意を理解していなかった。残念ながら。

風の噂で彼の病気の事はそのうち知った。 でも相変わらず時々はLIVE活動をしている事も知っていた。 僕たちはそのうちにお互いの音源を頻繁に送りあうようになっていたが、 どちらからも病気の話を持ち出す事は無かった。 彼からの音源は段々減って来た。 それでもこちらから送ったものに対するコメントは、 いつも丁寧に封書に入れて送ってきてくれた。 それはある種僕が音楽をやっていく中での一番の宝物であり、 モチベーションの源だった。

そんな中、 彼の病気があまり宜しくないと言う噂を聞いて数日後、 彼からソロで弾き切った演奏のCDが届いた。 クールで研ぎ澄まされた演奏だった。 僕は涙が止まらなかった。 僕には彼が何かを達観したように聞こえて仕方が無かったのだ。

昨年、 セロニアスファンクのCDを小久保さんに送ったが いつものようにすぐにはコメントが届かなかった。 病気が思わしくないのかと気にかけていると、 年賀状が来て、 短いコメントが書かれていた。

「素晴らしかったよ。 あれなら2800円で買っても良いな。 いつの間にか僕よりうまくなったね。 このバンドは無くしちゃだめだ」

それが彼からの最後のメッセージだった。

先日、いつもは送らないLIVEの案内を小久保さんに送った。 「遠いですが一度はセロファンを聞きに来てくれませんか? あなたに聞いて貰えるのが本当は一番嬉しいんです」

すこし照れくさかったがそんな文面を書いてしまった。

翌日、昔のバンド仲間から会社にメールが届いた。

『小久保君が昨日亡くなりました』

小久保さんは最後に少しだけ僕の事を思い出してくれたのだと思う。 だから僕も小久保さんにメッセージを返したのだと思う。 余りのタイミングに僕は僕と小久保さんの間柄についてあらためて思いを馳せた。 小久保さんが亡くなる前にそのメッセージが届かなかったにしても、そんな事は問題ではないのだ。 死期に間に合わなかったにしても、そのメッセージは確実に『届いている』のだ。

時々、『MINGUS』という僕の曲を一人で演奏する。 亡くなったアルト奏者の友達への追悼の曲だったが、 この曲の意味合いが僕の特別な仲間全てに対する追悼や、 感謝や、謝罪や、慈しみの気持ちになりそうだ。 単純な曲に思いを込めてゆきたい。 裏腹にこれ以上この曲への思い入れが重くならないように祈る気持ちもあるけれども。

そんなわけで10月10日のセロニアスファンクには特別な思いで臨む事になる。

気持ちが空回りしないようにしたい。

JOHN SCOFIELD LIVE / JOHN SCOFIELD

1977年 ENJA

ギタリスト聴くべし!!

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