ぱっとやごうのジャズ千夜一夜物語

第25夜 かげふみ(6)

僕は受験の為に、東京行きの新幹線に乗っていた。 その頃はまだウォークマンが一般的ではなかったけど、受験の為に上京するからと言って新幹線の中で参考書を開くタイプでも無かったので、 『フラニーとゾーイー』を読んだり窓の外の景色をぼーっと眺めたりしていた。 30分に一回くらい、岡本智恵が僕に『お守り』と言ってくれたタバコ屋で買った十円マッチ一箱を取り出しては点検した。 マッチの軸一本一本に小さな字で色んな事を書き込んであるのだ。 『必勝!』とか『無理しないでね』とか『このマッチでたばこ吸うべからず!』とか、几帳面な字で書き込まれていた。 『フラニーからゾーイーへ』と書かれたものも有った。 東京駅まで迎えにきてくれた兄貴と、チェックインする前に喫茶店に行った。

「お前、結構まともな成績になってきたらしいな」

「そうか」

「おふくろに聞いたぞ、明日いけるかもしれんな」

「うん。そうなったら良いけどな」

「東京来たいんやろ」

「うん。いや‥ようわかれへん」

「何でや。夏までは東京に来るって言うてたやろ」

「うん」

「おまえあれやな。彼女出来たんか?」

「うん。いや。うん。うん。出来た、彼女出来た」

「そんなもん、大学は休みだらけでいつでも大阪帰れるぞ」

「そっか。でもな、兄ちゃんは盆正月もまともに帰ってけえへんやないか」

「俺は俺でこっちに居たい理由が有ると言う事」

「なるほど」

その夜、智恵に電話した。 呼び出し音とほぼ同時に彼女が出た。

「どうですか?緊張してない?」

「全然、大丈夫。何か遊びに来たみたい」

「うーん、それはそれで困りものですねぇ‥」

わざわざ東京−大阪間で話さなくても良い様なやり取りの後で急に電話が遠くなる。

「もしもし、智恵ちゃん。智恵‥もしもし?聞こえてる?」

「うん、こっちはすごく良く聞こえてる。フフフッ」

「何かね、すごく声が遠いねん。アメリカから電話してるみたいや」

そう言ってふと気が付いた。 彼女は『フラニー』、いや『ゾーイー』の真似をして、受話器にハンカチをあてて話しているのだ。

「あのね。新幹線の中でまた『フラニーとゾーイー』を読んでたよ。 今日読んだ所には電話の場面は出て来なかったけどね」

「‥うれしいな、そーやって期待通りの答えが返ってくると。 この夏は東京に遊びに行っても良い?」

「もちろん、でも俺がその前に大阪に帰って、 それから一緒に東京まで来ようよ」

まだ試験をする前から、僕は東京の人みたいな気分で話していた。 案の定『取らぬ狸の皮算用』だった。 僕は、この東京遠征で、日程の関係上ついでに受けた志望校以外の1校を除いては全て不合格となり、 残すは親の体裁を繕うために受けた大阪の大学の二次試験だけとなった。 自信が無かったわけではなく、出来栄えも納得した試験の結果が不合格とわかった僕は、 ふさぎ込みながらも ─ 一年間大阪で浪人すれば智恵と一緒にいられるし、 万が一最後の試験受かったら言う事無しだけどな ─ と甘い考えを捨てられずにいた。 その試験までももう3週間も無く、「一回だけ会いませんか。そうしたら後は電話も無し。 2週間集中して勉強して下さい」という彼女の提案に何となく賛成して、 そのデートの日はやって来た。

【次週に続く】

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