ぱっとやごうのジャズ千夜一夜物語

第26夜 かげふみ(7)

『マグノリア』という喫茶店のロートレックの有名な絵画の横の席に、岡本智恵は坐っていた。 いつもの制服姿からするとずいぶん大人びて見えるおしゃれなフィッシャーマンズ セーターが、彼女の華奢な体をすっぽりと包んでいた。 僕は思わず足を止め深い呼吸を一つしてから声を掛けた。

「智恵ちゃん、久しぶり。やっほー。良いニュースは無いかな」

努めて明るく声を掛けた僕をびっくりしたような顔で眺めている彼女にもう一言。

「ん、顔に何かついてる?」

そういうと彼女はけたけた笑い出しながら言った。

「うん。はい。付いてます。付いてなかったものが‥ひげ‥」

そう言ってまた笑い出す。 一月の学年末試験以来一度も高校に顔を出していない僕は今日のデートに備えて髭を剃る事など全く忘れていたのだ。

「これはやっぱり『しまった!』かな」と聞く僕に、彼女は「髭を生やしたらヨネクラさんというか、 雰囲気だけは若くしたクラプトンみたい。誉めすぎ、ですか?」と言った。

決して明るい状況ではないデートを何とか明るく軽くスタートできたのでやれやれ、と僕は思った。 でもそのうちに『暗い雰囲気にならないように』というお互いの気持ちが逆に何となく空気を重たくしていった。 何となく弾まない会話に気を使ったのか、彼女がマッチ棒を使ったクイズをやりはじめた。 彼女はマッチ棒で『HOTEL』という文字を作り、 「さあ、このカップルはいったいここで何をしているでしょう? 二本だけマッチ棒を動かして答えなさい」と言って微笑んだ。

僕はしばらく考えたけれど 「なんだかエッチな解答っぽいねなあ。ぜんぜん分からへんわ」と言って降参した。

いたずらっぽい顔で笑う彼女がうれしそうにマッチ棒をちょいちょいと動かすと、そのマッチ棒には『NETEL』という形になった。

─ ホテルでネテル、ホテルでネテル、ホテルでネテル ─

僕の頭の中で短絡的な思考回路が回り始めたのとは裏腹に、 「いま、何を読んではります?」と、彼女はとっくに次の話題に入っている。

「え、あぁ。今ね、これ読んでる」

なんだか不意をつかれたみたいで照れくさかったのだが、たまたまその日も持ち歩いていたフィッツジェラルドの 『華麗なるギャツビー』を取り出し彼女に手渡した。

「はい、これ」と言って彼女に手渡した時に、文庫本に挟んであった虎の子の一万円札が『ハラリ』といった感じでテーブルの上に舞い落ちた。

「あ、ジェイさん。おっ金持ちぃ。今日はおいしいものご馳走していただけるかな。  それとも楽器を買うための財産ですか?」

その時、何を思ったか、僕の口をついて出た言葉は、「ホテルでネテル」だった。

─ あれ、あれ、俺おかしいぞ?何やこれ。俺は変や? ─

「あれ?あれ?‥」

そう言った彼女の顔も真っ赤に火照っていた。 なんとも単純な筋書きではあるけれども、今から思えば所詮は高校生同志、 手の込んだ筋書きよりもまだまだ現実は単純に思わぬところで思わぬ方向に進んでいたのだ。 対岸の灯を一人見つめていたギャツビー、そんな男の事をつづった文庫本からハラリと舞い落ちた一万円札がきっかけで、 僕の頭の中にはミナミの街のネオンがちらつき始めていた。

【次週に続く】

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