ぱっとやごうのジャズ千夜一夜物語

第28夜 かげふみ(9)

『845』を出ると何を話す間も無く、あっという間にホテルやレンタルルームが乱立する地域にたどり着いた。 彼女の手を取った僕は、やや強引に引っ張るように目的地へ向かう。 同じ高校生とは思えない同級生の呉山が、「あそこはきれいで明るいし、シャワー付きやねん」と、言っていた『レンタルルーム富士』がそこである。 呉山情報によると、普通レンタルルームにはシャワーが付いておらずベッドも無い。 風呂はもちろん無く、ひどい店になるとトイレも各部屋には付いていない、それがホテルとの違いだ、万が一のときの為に覚えておけ、との事だった。 「3000円もあったら足りるで」という言葉も僕には心強かった。 雑居ビルの3Fにそれは有った。 エレベーターに乗る前にはじめて彼女が口を開いた。

「ねえ、どこ、どこに行くの?」

─ やっぱりそうやって訊くのか? ─

そんな風に思いながら、「え、あぁ、ちょっと二人だけになろ」とか何とか、歯の浮くようなセリフが口をついて出たような気がする。 エレベーターの↑ボタンを押して周囲に人が来ないかそわそわしていると、ようやくエレベーターが下ってきた。 ドアが開くと驚いたことに中から色白で気の弱そうな、ネクタイをしたサラリーマン風のお兄さんとOL風の女性があらわれ、 彼らの方でも僕達がそこにいることに驚き、慌ててうつむいた。 岡本智恵は僕の背中に顔を隠して、それでもまだ足りずにじっとうつむいたままだった。 僕は僕で少し緊張が度を越してしまったのか、突然「えへへへ」とだらしなく笑ったので彼女に背中をバチンとたたかれた。 再び彼女の手を強引に引っ張ってエレベーターに乗り込む。 呉山は言っていた。

「えーか、初めての時はなぁ、エレベーターに乗った時にもうキスしてしまうんや」と、言っていた。

まったく少ない情報しかないので精度を欠いていようが、情報としては貴重なのである。

「‥あのな、もう首ったけやねん」

生まれて初めてそんな事を女の子に口にした。 彼女は顔を火照らせて、でも今度はじっと僕の顔を見ていた。 そして何も言わなかった。

エレベーターのドアが開いた途端に意表をつかれた。 本当に意表をつかれた。 僕はエレベーターが開いたらそこに渡り廊下のようなものがあって、ドアがあって、そのドアを開けたところが『レンタルルーム富士』だと思っていたのだ。

「いらっしゃ〜〜い!」と、いきなり中年のおばはんの陽気な声がしたのである。 そう、エレベータのドアが、いわゆる店の扉なのである。 エレベーターが開いた時点で『ご入店』なのである。 これには参った。 そして僕はそこからの手続きがまるでわからない事にはじめて気付いたのである。 一体ここで『お客さん』は何と言って何を注文すれば良いのだろう??

「あの、二人です」と言うのか?

はたまた「部屋ひとつ」か?

有り得ん! しかし、おばちゃんは割と親切だった。

「いらっしゃい。開いてるよ。コーヒーにする?ビールにする? コーヒーは800円。ビールは1200円」

─ そうか、名目上はコーヒー代、ビール代なわけか。そうとわかれば心強い ─

「おばちゃん、俺ビール。あとはジュースか何か有る?」

「あるよ。こっちね」

「??」

─ こっちね?というのはおばちゃんについて来いと言う事か? ─

そう思いながら確認するのも恥ずかしいので黙ってついて行った。

おばちゃんがドアを開けると、ミッキーマウスの大きなまくらと縦長の姿見のある明るい部屋が『ワーッ!』と広がった。

実際にはせまっちい部屋だったはずなのだが ─ 来た!来ちゃった。とうとう来たなぁ、ん ─

僕は確かに興奮していた。混乱しながら、しどろもどろの心で興奮していた。

【次週に続く】

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