ぱっとやごうのジャズ千夜一夜物語
第29夜 かげふみ(10)
おばちゃんは一旦出て行ってからビールとジュースを持って再びやってきた。
「2時間前金で2000円ね。5分前に電話するからね。ごゆっくり」
虎の子の一万円札を取り出すまでも無かった。 おばちゃんは無造作にお金を受け取ると、そそくさと出て行った。 いざ密室に二人っきりになってしまうと、ドギマギしてしまって、何を言って良いかわからず、黙っていたが 「あ、テレビなんかも有るんですね」という彼女の一言でようやく僕も 「あ、ほんまやね。つけよか」と、間の抜けた返事をした。 テレビの横にコインボックスが有って100円を入れると、スイッチも押してないのに、いきなり画面がパッと明るくなった。
びっくりした。 家族ぐるみで付き合っていて、しょっちゅうお世話になっている友達の親父さんの顔が、どどーん、と言った感じでアップで映し出されたからである。
「あ!穴見のおやじさんや!」
すっとんきょうな声をあげた僕に対して、彼女はそれがとてもわざとらしく感じたのだろう。
「それって変、ですよ。なんかまるで知ってる人みたい」と、ちょっと眉をしかめて言った。 が、本当にしょっちゅう顔を合わせている知り合いだから仕方が無い。 この親父さんは中学時代からの仲の良い友達の親父さんで、当時の南海ホークスの2軍監督をやっており、次期監督候補と言われていた。 それにしても初めて女の子と密室に二人きりになるというこんな時に、いきなりテレビの画面から覗き込むとは何たる親父さんだ、 なんだか向こうからこちらの状況が丸見えのような気がしてやたら照れくさかった。 でもそれがきっかけで、僕は友人の穴見の事をたくさん話し始める事になった。 同じクラスになった事は無いがいつの間にか仲良くなっていた事、 当時アメリカに留学していた奴から送られてきた来たAIR MAILの事、 生まれて初めてやったアルバイトが親父さんに頼まれた彼の家の庭いじりだった事‥
「仲が良いんですね。友達の事一生懸命話すのって素敵ですね」
そんな風に言う彼女の顔は先程みたいにこわばっておらず、いつもの優しい表情に戻っていた。
そして僕もそうありたかった‥でも僕は違っていた。 そんな事は半分うわの空だった。 そして表情こそ緩んだものの、まだまだ緊張したまま壁にもたれて座っている彼女が、もう逃れられないような位置にぎこちなく移動した。
なんだか何をどうやっても不自然な感じがした。
「あのな、首っ丈やねん‥」
「‥うそばっかり。みんなにそう言いはるんでしょ?」
「そんな風に見える?」
「あのね、最初はそんな風かと思った‥」
「今は?」
「今はね、ちがうの」
僕の声は裏返る寸前、彼女の声はかすれていた。
「あのな、僕な、何にも知らんねん‥」
「‥」
僕はこれでもかと言わんばかりに堅く閉じられた彼女の唇に僕の唇を押し当てた。 そのまま息もせずに何秒も過ぎ、僕が窒息しそうになった時、 彼女が「ひげが、痛いの‥」と言った。
その一言のおかげで窒息せずにすんだ。
すっかり乾いた感触に、ほんの少し心地良い柔らかさを感じられた程度だった。 それでも僕や彼女はもう普通じゃ無かった。
【次週に続く】