ぱっとやごうのジャズ千夜一夜物語
第35夜 かげふみ(16)
入試の発表があるまでは毎日11時頃までぐっすり眠り、起きたら起きたで紅茶を入れて、 春の陽差しが心地良い自分の部屋でゆっくりと新聞を読んだり新書版の本を読んだりしながらのんびり過ごした。 時折兄貴のレコード棚からアートペッパーやソニーロリンズ、チェットベーカーなどのわかりやすいジャズのレコードを拝借してきて結構な大音量で聞いた。 本屋さんやレコード屋さんにちょろっと出掛ける事は有っても、ミナミやキタへは出掛けなかった。 智恵に『会わない、電話も無し』と約束した手前、もしかしたら、とひたすら彼女からの電話を待っていたのである。
ギターを抱えて鏡の前でポーズを取ったり、 庭にオキシドールとビールを持ち出して髪の毛を脱色しようとしたり、 シェットランド犬のジョンと格闘しながら風呂に入れたり、そんな事をしながら、ずっと僕は、岡本智恵からの電話を待っていた。
そんなある日、僕は近所の本屋で宮城音弥の本を買った帰りに、中学時代からの一番の親友のもっちゃんの家を訪ね、 彼の家の馬鹿でかい庭の端っこのほうで、何となくタバコを吹かしたりしながら時間を過ごした。
「智恵ちゃんは?」
「ん、発表まで会わへん約束してる」
「へえ、男前やな」
「そうか?」
「うん、男前や。そやけどしんどいやろ」
「ん、ちょっとな」
付き合いの長い友達は良いな、と思いながら家に帰ると母親が、「電話が有ったよ」と言う。
「おとこ?おんな?」
「女の子」
「名前言ってた?覚えてる?岡本さん?」
「残念でした。山本さん」
「‥」
ふと頭に浮かんだのは通勤電車の中でプレゼントをくれて、2−3回お茶を飲みに言った事のある山本妙子だった。
何となくご無沙汰だったし彼女の電話番号も、いつの間にか無くしていたので、その内に又かかって来るかも知れない、と放っておいた。
そんな事よりその電話が、岡本智恵からでは無かった事ばかりが、残念で仕方が無かった。 しかし、一番重要な失敗はこの時以外に有り得なかった。 気付かなかった僕は本当に馬鹿だった。 どうしょうもない馬鹿だった。 もちろん後でわかったのだが、その電話の<山本さん>は山本妙子ではなく、岡本智恵の親友の山本幸江だったのである。 合格発表の当日は学科は違っても同じ大学を受けたもっちゃんと待ち合わせて一緒に見に行った。 大学の入り口で佐竹とすれ違った。 佐竹は、「おう、遅いやんか。俺、アカンかったわ。まあ、一応、体裁で受けただけやから構へんけど。明日甲南に入学手続きしに行くわ」と、からっとしていた。
「俺らの分も見た?」と、もっちゃんが尋ねると、「そんなん自分で見といでーな。ほな」と、足早に去っていった。 僕の番号と名前はそこに貼り出されていた。 不合格だったもっちゃんは浪人が確定したにもかかわらず、「おめでとう。早よ智恵ちゃんに連絡したげや」と言ってくれた。 僕は色んな思いで頭が一杯になって、「あ、おおきに、ありがとう」としか言えなかった。
【次週に続く】