ぱっとやごうのジャズ千夜一夜物語

第38夜 かげふみ【最終回】

しばしの沈黙の後で僕はようやく言った。

「あ、そういう事やったんか、今わかった。わかりました。 そやけどあれは、『山本さん』だけで‥」

「私ね、それも考えたんです。 きっと他の"山本さん"がいてはってその女の人に、電話しはったんやなって思ったの‥ あのね、違ってても良いんです‥ 一旦そんな事思い始めたらもうだめなんです‥ ごめんね、 ごめんなさい‥ 毎日電話くれはる人の方がね‥ 前からあこがれてた人やし‥ 今日もすぐに電話くれはらへんかったし‥ ごめんね、ごめんなさい。 わかってるんです、私が勝手やって。 でもね、良いとか悪いとかより、気持ちは別なんです。 この前あんな事になったでしょ、でもね。私今でもジェイさんの事、お兄さんだと思ってる。 もう大学生やし‥」

多分、この時の為に言葉を考えていた彼女はぽつぽつとではあるけれども、かなりきちんと言わなければならない事を僕に伝える事が出来たのだろう。 それに対して、全くの無防備だった僕はただ彼女の言葉を聞いて、その意味を理解しようとするのに精一杯だった。

「それでね、そのお兄さんに会ってお祝いくらいしてくれないかな? ずっと、ずっと逢いたかった。 生まれてはじめて人に逢いたくて、しんどかった‥」

「いえ、だめ、今はね。今はとても逢えない。私ね、もう決めたんです。 今逢うとね、また心の針が触れるの。 そしてそれは色んな人に対して迷惑をかける一番いけない事だと思うの」

「僕には、僕には悪くても良いんだね‥」

「‥そんな風に言わないで下さい。 大学にね、大学に入ってしまうと、環境も変わって、 女の人とかも大人っぽくて魅力のある人が一杯いて、 いつの間にか私なんか放り出されそうで‥ だって女子大生と女子高生じゃ、本当の大人と子供でしょ。 そんな事考えてたら、もう私つらい思いをするより、あの人と付き合う事にしよって決めたんです‥ あのね、手紙書きます。 きらいになったり、怒ったりしてジェイさんと別れたんじゃないって、それはわかってほしいから」

あっけない、あまりにもあっけない幕切れだった。 本当の意味で二人がスタートラインに立つ為の条件、それがやっと整ったよ、という電話のつもりが、 こんな形で終わりを迎えるなんて。 そして、いみぢくも彼女が言ったように、僕は大学に入るなり周囲の女の子に、ちゃらちゃらと、ふらふらと、気持ちをふらつかせる事になった。 しかしながらそんな事は考えもつかないその日の僕は、家族が寝静まった真夜中にこっそり家を出て、20分かけてもっちゃんの家へと自転車を飛ばす。

高校時代に時々そうした様に、呼び鈴など押さずに塀を乗り越え、奴の部屋の窓を"こつこつ"と叩く。 そうすると眼を真っ赤に腫らした奴がすぐに顔を出す。

「おー、来てくれると思とった。入れや」

珍しく酒くさい部屋だった。 しばらくもっちゃんは一人で喋りつづけた。

「俺な、悔しいんや。 お前はな、俺なんかと結構つるんでて、ちゃんと親孝行に地元の大学受かって。ほんで智恵ちゃんともうまい事行ってて。 そやけどな、それはねたみとかと違うねん。ひたすらに自分へのふがいなさやね」

延々、15分くらい奴が話しつづけた後に僕はポツリと言った。

「智恵なぁ、行ってもうた。終わりや。終わってん」

もっちゃんは一瞬驚いて顔を上げ

「そうか、そう言う事か。悪かった」

そう言うとカセットテープに、ERIC CLAPTONの『NO REASON TO CRY』を放り込み、僕にもグラスを用意してくれ、"ダルマ"を注いでくれた。

「まあ、何はともあれ、お前に乾杯や。合格おめでとう」

二人とも何も言わずに座り込んだまま慣れないストレートウィスキーを喉に流し込んだ。 CLAPTONが、『♪All our past time should be forgotten♪』と歌うのを聞きながら、僕たちはそれぞれにこれからやって来るであろう一番熱い時代を、漠然とした思いで、頭の中に思い描いていた。

朝の5時にもっちゃんの家を出る前に、馬鹿でかい奴の家の庭を二人で歩いた。 何時間ぶりかにもっちゃんが口を開いた。

「何かな、やっぱり俺もお前もまだまだぼんぼんやな。 ぼんぼんはやっぱり弱いわ。 そやけどな、ぼんぼんで終わる奴と終わらん奴がおる。絶対おる。 弱さと敏感さはいっつも紙一重や。 俺はお前の事好きや、見てみ、春やで」

明けてきた庭はふと見上げるともう桜が満開だった。

「俺もな、お前の事は好きや。智恵の十分の一ぐらい。 それでな、十分の一有ったら、充分や。 全然大丈夫や」

そう言ってしまうと僕は奴に軽く手を上げ、慣れた仕草で塀を乗り越え、ひょいと自転車にまたがる。

まだ少し残る朝靄の中、僕は自転車を飛ばす。

これから始まる新しい時代に向けて、ひたすらにペダルを漕ぎ続ける。

っという間に終わった恋愛をもろともしないふりをしながら、 それでも徹夜明けの疲れた眼を何度もしばたたかせながら、僕はまだ知らない場所に向かって、一目散にペダルを踏み続ける。

【完】

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