ぱっとやごうのジャズ千夜一夜物語
第40夜 テナーマッドネス
「FMをつけてみて、NHK FM」
突然の、久々の電話だった。
午前十時半、僕は長すぎる夏休みを持て余し気味に部屋で紅茶を飲みながらウェザーリポートを聞いていた。
本来なら彼女に会いに行く為にウォークマンで
BRECKER BROTHERSを聞きながら電車に揺られている時間だ。なのに ‥
「FMをつけてみて、NHK FM。早くね」
そう言われて返事に窮した。
だって僕は彼女がヨーロッパに3週間の旅行に行っている間に他の女の子(しかも彼女の後輩)と ─ 関係 ─ を持ってしまったのだ。 そして彼女はそれを知っている。 でも彼女はそれについて一切何も言わない。ただ突然電話をしてきて穏やかなな声で無邪気に「FMをつけてみて、NHK FM。早くね」と言うのだ。
「ちょっと待ってね」
僕はラジオをNHK−FMに合わせてみる。流れているのは『TENOR
MADNESS』だ。
「ね? ソニーロリンズとコルトレーンが共演してるんだって。だから電話したの」
「うん、テナーマッドネスだね。共演はこの曲しかないんだよ」
「ふーん、電話して良かった」
彼女の無邪気さにはいつも頭が下がる。彼女は何度も僕に電話しようとしたに違いない。 何度もダイヤルを回しては途中で受話器を下ろしたに違いない。嫉妬や不快感で眠れない夜も過ごしたに違いない。 そんな中、悪いのは僕の方でも、それでも気まずくならないように細心の注意を払ってようやく巡ってきたタイミングがこの電話に違いない。
SONNY ROLLINSとJOHN COLTRANE。
当時の僕達には完璧だ ‥ そう思うと益々自己嫌悪が増幅された。 そう、僕たちはまだ『恋人』では無かった。とても長い間、僕たちはとても仲の良い兄妹のようだった。 家族の様に親密で当たり前のように僕たちはお互いのそばにいた。 そして僕は彼女が欧州から帰ってきたら彼女と正式にそういう契りを結ぼうとしていたし彼女もそんな風に思っていたに違いない。 そう言う空気に満ち満ちた期待感が僕たちを包んでいた。
‥ なのに ‥ 最低 ‥ 俺って本当に最低 ‥
「あのさ」
「何?」
「電話さ、ありがとう」
それだけ ‥
何でそんな風にしか言えなかったのかな? 彼女の声を聞いた瞬間の、ばつの悪さなんてどっかに吹っ飛ぶ程のときめきや、謝罪と、それに続く心機一転の真摯な気持ち、胸一杯のもろもろの感情 ‥
自信が無かったんだな。
これ以上無いという機会をさりげなく提供してくれた彼女に対して、自分がそれに応えられる責任感やそう言ったもの ‥ が当時の僕には無かったんだな、きっと。
今の僕なら器用に気の聞いた一言も添えて言ったに違いない。
「今から飛んで行くよ。」ってな感じでね。
でも出来なかった。そして何度も何度もその事を悔やんで、悔やんでいるのに彼女の前に出ると開き直ったような、そっけない素振りを繰り返した。
そして卒業。結局、僕たちが同じ道を歩むことは無かった。
─ 息子さんもサッカーやってるんですね。うちの子もサッカー漬けの毎日です ─
今でも彼女から毎年年賀状が届く。 ゼロ回でも2回でも無い、年に1回の御挨拶だ。 結局、あの時に言えなかったひと言はこんな形で現在の関係に繋がっている。
あの時に僕が何か言っていればどうなっていたんだろう、と時々考えたりした。 ささやかな、一年に一度のやり取りさえできなくなっていたかもしれないし、どこかの時点までは同じ道を歩いていたかもしれない、なんてね。 退屈な春の午後には絶好の時間つぶしのテーマだった。
いつしかそんな事もやめてしまったけど。
でね、いまだに彼女に頭が上がらないな、と思うのは毎年の年賀状。 ほんの数文字、彼女の書いた字を見るだけで、僕はとんでもなく優しい気持ちになる事が出来る。
まるで魔法みたいに ‥
何かを言う事で僕に魔法をかけようとした女の子はたくさんいた、でもね、何も言わない事で僕に魔法をかけてくれたのは君だけかな。 四半世紀に渡って ‥
Sonny Rollins Quartet / Tenor Madness
1956年 Prestige